2016-07-31

人生はそうじば

今日は久々に気持ち的にゆっくり過ごした1日でした。
そう。ゆっくりしたのは気持ち。
実際はいろいろ動きまわっていました。

さて、動き回っていたのにはワケがあります。

ボタンを押されたからです。

ボチッ!と

そう。
ボタンを押された=ざわつき です。

感覚として、「嫌」「嫌い」という感覚がはっきり。
深い不快。

でもなにがつらいって、その状態に出口がないから。
(出口、ちゃんとあるんですけどね。)

そこからさらに奥へつきぬけると、ふっと楽になるのですが、
それがいやはや、むつかしい。

格闘していました。

まず、「嫌だ」という感覚が耐え難いんですね。
自分の、この、私がもつ、「嫌」が、つらい。

なにが嫌か。
それを掘り下げるのもいやなんです。

とにかくいや。

最初は、「嫌でもいいじゃん!」と、嫌な自分にOKを出しました。

これは、あるいみ楽になります。
けれど、問題解決にならない。
私はこれを忘れては思い出し、繰り返してきた気がする。
思い出すたびに、楽になって。
でもね、これ、今の私が思うに、まやかしです。

どんな私が、「嫌だ」とおもうのか。
ある私が、そのひとのある部分を嫌だ!と感じます。
その、「ある私」
この私をちゃんとみてあげないと、うやむやにしてしまう。

なぜボタンを押されるのか。

それは、「私」を見つけてほしいから。

ざわつき。

これを、「あの人はあーでこーでギャーギャーほんといやね〜。」
これで終わらせる、そのもったいなさ。

自分に出会うチャンスなのに。

でもざわつきは人にとってとても不快で、
楽になりたいから、
発散して、おわり。

それもいいんだろう。

でもわたしは、なんかちがうなぁという感じがするのです。

それは、わたしのなかで、
むきあわずにおしまいにしている、という思いがあるから。

でも不快な感覚にフォーカスをあてるって、つかれます。
逃げたくなるのもすごいわかります。
私も、今回、そうしたくなった。

でもなんどもおそってくる。
嫌なそのひとのこと。

思えばずっとボタンをおされていた。
だいぶはっきり、嫌いやな、とおもっていた。
でも、嫌いをかかえる自分がつかれるから、ざわつくけどほおっておいた。

そしたら、嫌!が一気に噴き出すシチュエーションがやってきた。

あー。
やっぱりみなきゃいけない。

でも昔の私からしたら進歩です。

昔の私は、嫌だと思うことすら抑えていた。
あれは私が私を守る方法だったけれど、
やっぱり無理がかかっていて、
噴き出したっけ。

その噴き出す感情をどうしようもできなくて苦しんでいた、そんなある日、SA®に出会ったのでした。

あの頃から今まで、
様々自分をみてきて、

みればみるほど、
みたくない自分に出会う。

でもなんでだろ。

それは、
みたくない自分をみてあげたいわたしがいるから。
人生かけて、掃除したいわたしがいるから。

だから、みたくない自分に出会うんですね。

人生って、そうじばなんだな。

やりたくなけりゃ出会うこともないんだろう。
うやむやにしておわりにしちゃう。

でもわたし、
そうじしにきてるんです。

わたし、そうじするためにうまれてきたんです。

そうじしにきたんです。

そうじするじんせいをせんたくしてきたんです。

私は、もがきます。
やだとか、楽しいとか、うれしいとか、かなしいとか。
右往左往します。

でもそれ自体、選択してここにいる。

あぁ。

いまはっきりと切れました。
なので突然ですが今日はここでおしまいです。

今日はこのままもうねよう。

そうだ。

もがいて、さっき、ふと突き抜けたときがあった。
そのときみつけた、わたしのなかのボタン。

「甘えてはいけない」

じつは今日、日中友人とはなしていてでてきたことば。

そう、すでに出てたんです。

けど、私の中の奥からようやく出てきた。

セッションって、奥深いなぁと、ほんとうに私自身を通して学んでいます。
深いところから出てきてるのと、そうでないのとでは、癒しの度合いが全くちがう。

私のなかの、深いところに、そう、飲み込んでささってしまった魚の骨のように、
そのささった骨をみつける作業。
それがようやくできた。

そのむつかしさと、奥深さと、感動と、おもしろと、
そんなことも感じたんです、今日。

私は私の思考に苦しんでいるんですね。
あぁ。すっきり。ほっとする。

そんなことを深く感じれた今日に感謝。

読んでくださりありがとうございます。
おやすみなさい。

 

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